第4話 国際連合の舞台で
―「あほのように勉強し、天才のように夢を見なさい」―
1.国連潘基文(バンキムン)事務総長の魅力
読者の皆様は「国連」と言ったら最初の印象は何でしょうか?各々違う考え方を持つだろう。
韓国人として考えたら、一番深い印象は1950年の6.26朝鮮戦争の時に国連軍が韓国を守るために戦ったことかも知れない。
21世紀になり、最も印象に深いことは、潘基文(バンキムン)氏が韓国人として、そしてアジア人として初の国連事務総長に選ばれたことだろう。潘総長は数名の候補者の中でも最大の得票数で選ばれた。そして、2007年1月から17年1月まで2期連続当選されて務めていた。
潘総長の勤務期間で最も世界に影響力を持ち、今なお世界中が取り組んでいるプロジェクト―SDGsである。2015年9月に国連総会で各国首脳たちが満場一致で採択された「持続可能な開発目標SDGs(Sustainable Development Goals)である。序文の中で地球上の人類に対して「誰一人残さない」(leave no one behind)という言葉の響きは素晴らしいと思う。
SDGsは2015年から2030年までの15年間の国連の目標であり、世界各国がそれに取り組んでいるのである。
それ以外でも、潘総長は世界各国を飛び回り、人類の発展と幸福のために精力的に仕事をして、世界各国からは高く評価されている。
潘事務総長の誕生は、世界史的に韓国人は言うまでもなく、世界のコリアンたちの誇りを高めたと思われる。もちろん、彼はコリアンだけのためのリーダーではなく、世界や人類の発展に大きく貢献できる立場にいるリーダーである。
韓国に対して好感度が高くないと思われる日本の麻生太郎副総理も2006年10月にソウルを訪問した時に、潘氏の当選に対して、「我々はアジア人の一員として大きな誇りを持つ」と祝辞を述べたという。
10年くらい前に、私はソウルに行ったときにキョウボ文庫(韓国最大の書店)で面白い本を一冊見つけて即購入して読んでみた。本のタイトルは「阿保みたいに勉強し、天才みたいに夢を見なさい」(ミョンジン出版、2012年5月)となっており、ロール・モデルとしての潘基文総長の伝奇を書いた本で、読んでみて大きく感激と感動を覚えたので、この本を日本で翻訳出版したら、特に若者には人気があるのではないかと思って、私はこの本の著者を探してみた。
色々伝手で著者が見つかり、数回お会いして出版権の交渉をした上で、日本の出版社も見つけて翻訳出版の準備に取り掛かっていた。
ところが、後ほど著者から連絡があり、実はこの本は版権問題で訴訟が起こっているため、版権の移譲は困難であると言われたので、残念ではあるがその計画を中止せざるを得なくなった。
この本を読んでみて私はたくさんのことを学ぶことができ、もっと若ければ国連での公務員として仕事をしてみたいな、という願望まで持つようになっていたが、それは実現不可能な夢であった。
後ほど息子が大学に入学したら、「君は英語が得意だし、将来国連で働いたらいいんじゃない?」と聞いたら、自分は別の夢があるというのである。人生それぞれの夢がるから息子の選択を尊重するしかなかった。
息子は早稲田大学商学部に入ったが、在学期間中に韓国の延世大学に半年留学し、その後はカナダのトロント大学に1年間交換留学して来て、また、世界中のいろんな国にパック・パッカー旅行をしたため、若い時から国際的な視野を広めることができたのではないかと、親ばかとして誇りを持っている。卒業後はベンチャー・コンサルタント会社に就職し、4年間勤務で経験を積んだ後は、仲間と一緒に東京でベンチャー企業を立ち上げて、自分の夢を実現するために頑張っている。
2.図們江(豆満江)国際開発の研究で国連との縁結び
私が初めて国連に関心を持ったのは小学生の時であった。私の4番目の実姉が私の通う小学校の教員であった。
ある日、自宅の庭で姉と一緒の家事を手伝っていた時に、私は姉に質問した。「世界で一番偉い人は誰ですか?」と聞いたら、姉は「毛主席(毛沢東)だよ」と考えもせずに答えてくれた。しかし、私はあまり納得がいかなかったが、世界の知識がないので、それ以上に質問はできなかった。
当時、私が心の中で考えていた「一番偉い人」とは、国連の事務総長だったかも知れない。当時中国の国内教育や世論では、「中国は世界で一番幸せな社会主義の国であり、そのリーダーである毛沢東が世界で一番偉い」と7億の中国人は考えていた。「毛沢東は中国人民の太陽であり、世界人民の太陽である」と洗脳教育をしていたのである。
その後、北京で大学生になり、改革・開放政策のお陰で世界に関する知識と世界の情勢が分かるようになっていたが、国連のことについてはあまり知らなかった。
国連に関心を持ち始めたのは、日本留学後であった。1994年に立教大学大学院経済学研究科の修士に入学し、研究テーマを選んだのが「図們江(Tumenjiang,とまんこう)デルタ―国際開発プロジェクト」に関する研究であった。朝鮮半島では豆満江(どぅまんがん)
1990年代初頭から、図們江デルタ―地域の国際開発が世間の関心を高め、東北アジア6カ国と国連機関UNDP(国連開発計画、United Nations Development Programme)が深くかかわり、私は図們江地域開発計画(TRADP; Tumen River Area Development Programme)に関する資料を調べて勉強していた。
私がこのテーマを選んだ理由は、図們江デルタ地域のロシア、朝鮮と中国の国境地帯は私の故里延辺であることと、私はこの3カ国語を話せるという独特の言語と文化の優位を持っていたからである。
図們江デルタ国際開発計画は着々と進み、1995年末には国連ニューヨーク本部に図們江事務局(Tumen Secretary)が設立されたというニュースを聞いて、このテーマを選んで正解だったと喜んでいた。この事務局は翌年の1996年には中国北京に本拠を移していたので国連に対する私の関心はさらに高まっていた。
それから毎年東北アジア経済フォーラムが新潟市(ERINA:環日本海経済研究所主催)で開催されていた。私は96年に中国長春市で開催される「図們江開発に関する国際会議」に参加する機会を得ていたが、そこで出会ったのは日本の環日本海総合研究機構(INAS:Institute for Northeast Asian Studies)の涂照彦理事長(名古屋大学教授)と温井寛事務局長(元社会党『社会新報』編集長、党中央執行委員歴任)であった。
日本に戻ってきた後、私は温井寛先生から頂いた名刺を探しで電話してみた。お会いできないかと申し入れをしたら、「事務所までに来てください」と言われたので、予定通り事務所を訪問し、私の自己紹介と研究テーマについて説明した後、「今後いろいろとご教示ください」とお願いしたのが、後ほど大切な縁になって、その後の私の人生の道が開かれたのである。
これはチャンスや運命を自分の手で掴んだ、来日後初めての出来事だった。
その後、温井寛先生は私を若手研究者として育てるために、INASが編集発行する機関誌の編集作業に私に協力する機会を与えてくれた。そして毎年新潟で開催される国際シンポジウムに私を連れて参加していたため、そこで各国の専門家や国連関係の専門家たちにお会いするチャンスが与えられていた。
3.アジア開発銀行(ADB)と世界銀行(IBRD)を訪問
そんな中、私には良い機会が訪れてきた。 2001年4月に東京財団で「東北アジア開発銀行」設立に関する研究プロジェクトが採択された。INASの研究プロジェクトとして温井さん中心に申請書を作成し東京財団にアプローチしたのであった。それが見事に当たり、そのお陰で私はプロジェクト一員(私だけが東京財団の研究員として専門職)になり、事務局長を任された。莫大な研究助成が与えられたため、世界を飛び回りながら研究調査を行うことができた。
その年の夏に、北京の国連図們江事務局に訪れてインタビューし(当時事務局長はモンゴル出身)、いろんな交流ができた。
この研究プロジェクトは新たな国際開発銀行を設立する可能性に関する研究であるため、その年7月にはフィリピンのマニラにあるアジア開発銀行(ADB:Asian Development Bank)本部を訪問し、銀行の総裁や関係専門家たちと会ってインタビューし、その道でシンガポールに行ってはAPEC(アジア太平洋経済協力首脳会議)事務局を訪問してインタビューする機会もあった。
その年11月末には日本人メンバーの中野有さんと二人で米国に出張した。シカゴ経由でワシントンを訪問し、世界銀行(IBRD、原名は国際復興開発銀行:International Bank for Reconstruction and Development、1946年設立)本部でインタビューし、米国国務省の官僚とも会って意見交換してきた。
その年の9.11事件が起こった2ヶ月後だったため、米国の入国審査は厳格だった。 入国審査の時、日本人の友人は順調に税関を通過したが、私は中国国籍のために30分ほど入国手続きを経ることになり、厳しい審査に苛立ちを覚えた。
その後はニューヨークで国連本部に訪問し、関係担当者に会ってインタビューした。もちろん人生初めての国連体験であった。それをきっかけに夜にはニューヨーク中心街のパブでJAZZバンドを人生初めて鑑賞したのが印象に深く残っている。
ホワイト・ハウス前で中野有氏と筆者(左が筆者, 2001年11月19日)
さらに忘れられないのは、一人でニューヨークの街を歩き、夜になったら9.11事件によって崩れた世界貿易センター(WTC)付近に訪れて、テロ事件の惨状を目の当たりしすることができた。現場では解体作業が行われていた。
ニューヨークの日程が終わった後、長距離バスを2時間ほど乗ってフロリダ州に向かった。 そこにはアジア開発銀行の元副総裁(元米国商務部次官)を歴任したスタンリー・カツ博士が住んでおり、博士は北東アジア経済フォーラム(NEAEF,本部ハワイ東西センター内)の場で「東北アジア開発銀行」設立を主張した専門家であるので、単独インタビューを行うことした。
博士はすでに定年退職し、フロリダの高級別荘に住んでいた。スタンリー・カツ博士の邸宅で2時間ほど意見交換した。午後には二人でメキシコ湾に行って遊覧船に乗って美しいアメリカ南部の風景を眺めることができた。
このように東京財団のプロジェクトに参加したおかげで、東北アジア諸国と世界の重要な開発銀行機関を訪問調査し。その結果を政策提言としてまとめて、2002年7月29日に日本政府小泉首相に政策提案をするようになり、「日本政府が主導 「東北アジア開発銀行の設立を推進することを提案する」という提案書を持参し、内閣府の福田官房長官にアポを取ってプロジェクトメンバー3人で直接出会い、ブリーフィングすることができた。
こんな素晴らしい体験はなかなかできないし、これも私の人生の奇跡といえるだろう。
スタンリー・カツ博士とご婦人と一緒に博士の別荘前で(筆者は左, 2001.11.25)
4.国連UNIDO会議に出席
2003年11月から日本政府内閣府の国策研究所研究員として働いていたが、翌年秋に延辺州政府図們江事務局の知り合いを通じてオーストリアのウィーン「図們江開発に関するワークショップ」があるという話を聞いた。
早速出張を申請し、日本の唯一代表として11月30日~12月1日の間に、国連工業開発機構(UNIDO、Industrial Development Organization)とUNDP図們江事務局が共同で主催する「図們江地域投資サービス(TRIS)・ネットワーク国際ワークショップ」に参加した。
当時、日本政府は国連図們江事務局のメンバーではなかった。北朝鮮との国交がないという理由でUNDPの招待を受け入れなかった。 そのため、図們江事務局との公式関係をもっていなかったのだ。
だが、研究者としてこのような国際会議に参加することは問題にならなかったので、研究所から出張許可を得て、一人で出発した。この機会は、私が重要な情報を入手し、積極的に動いていたために起こったことであった。
しかし、私には人生初めて国連会議に参加でき、発表もできたので絶好の機会だった。 会議は英語だけを使用するようになっているので、最初はちょっと躊躇したが、チャレンジすることを決意した。この機会を必ず見逃したくなかった。 そこでかなり力を入れて英語で発表文(PPT)を作成し、繰り返しリハーサルして万全の準備をした。
このワークショップは国連関係者と図們江事務局のメンバーであるモンゴル、ロシア、中国、韓国、朝鮮でそれぞれ2人の代表が参加し、中国からは吉林省と延辺州の図們江事務局担当者が1人ずつ参加した。 日本の唯一の参加者として日本の役割をアピールできる良い機会だった。
私は初めてヨーロッパ旅行になり、ドイツのミュンヘン経由でウィーンに到着し、国連関係国の専門家と交流する重要で貴重な体験をすることができた。
私の発表テーマは「日本の東北アジア地域協力政策に関する考察-東北アジア・グランド・デザイン-」であった。
この機会に延辺州政府の参加者と二人で市内旅行を楽しんだり、ワイン・バーの体験もできた。4泊5日の短い期間だったが、ヨーロッパ社会の一角を体験して観察することもできた。
ドイツやオーストリアは日本よりもはるかに成熟した社会体制になっていることを実感した。 社会民主党が政権を握った西ヨーロッパの典型的な福祉社会であり、人間の自由が保障される社会という感じを受けた。
例えば、電車やバスに乗るときは、乗組員や駅職員も見えず、誰もが自らチケットを購入して乗車するのを見ると、日本の交通システムとは全く違い、先進的なものと見られたのだ。 人間のモラルが高度に発展し、自覚性によって社会体制が維持されるように見えた。私がかつて学んだ共産主義社会のユートピアに近いという感じだった。もちろん共産主義はあくまでもユートピアに過ぎないと今は分かっているが。
5.国連ESCAP会議に参加
それから9年が過ぎた2013年に再び偶然の機会に国連との縁ができた。
国連アジア太平洋経済社会機構(ESCAP:Economic and Social Commission for Asia and the Pacific)は、組織の本部がタイバンコクにあり、2011年に東アジア・北東アジア事務所(NESCAP-ENEA)を韓国仁川市に設立し、この地域の開発事務を担当することになっていた。
私はすでに日本の国策研究所NIRAを2006年11月に任期満了で辞任し、現在の大学教授として働いていたが、私が社会的な活動している渥美国際交流財団から連絡が来た。
ESCAP仁川事務所はロシアのウラジオストクで北東アジア地域経済専門家ワークショップを企画しているが、事務所の日本人スタッフがインターネットで私の名前を検索し、会議に参加してもらえるかという問い合わせがきた。 私の個人連絡先がわからないので、渥美国際交流を通じて連絡が来たのだった。これも不思議なことなのにインターネットで専門家を見つけたのに私の名前がかかったのだった。
今回は国連側から私に訪れたのだった。もう一度の貴重な機会が訪れてきた。
この機関は、2011年に設立された2年を過ぎた国連アジア太平洋経済社会機構(本部はタイのバンコク)傘下の東アジア・東北アジア地域事務所(United Nations Economic and Social Commission for Asia and the Pacific: Subregional Office for East and 北東アジア(ESCAP-ENEA)が主催した「東アジア・東北アジア地域協力に関する諮問会議(Consultation Meeting on Subregional Cooperation in East and North-East Asia)」を2013年8月16-17日にロシアのウラジオストクで開催されるということだった。
ところがロシアへ行くビザを申請し、国連ESCAP本部でも要請書類をロシア外交部に送ったにもかかわらず、入国ビザがなかなか降りてこなかったので、不安な気持ちで待っていたが、出発する2日前に大阪ロシア領事館から連絡が来た。幸いにも会議に参加することになったが、日本からウラジオストクまで行く直行飛行機がないため、北京経由で夜中に航空機に乗って夜明けに現地に到着した。
大会の会議場は沿海州にあるロシア連邦大学の国際会議室で、プーチン大統領がプレゼントして設けた。2012年にアジア太平洋経済協力首脳会議を開催するために準備された会議場だった。 プーチン主導下で行われていた首脳会議のラウンドテーブルだった。20カ国の大統領やリーダーたちが首脳会談をしていた場所で、私も発表する機会を得たので、心は少し緊張した。
UNESCAPワークショップで報告する筆者(左から2番目、2013.8.16)
私が発表したテーマは「北東アジアのためのインテリジェント・インフラ構築構想(Intelligent Infrastructure Initiative for Northeast Asia)」だった。 緊張したて英語で発表することになりなんとか思う通りに発表ができてほっとした。
私はロシア語が少しできるので、市内ではロシア語で地元の人々と簡単な会話も楽しんだ。
平凡な農民出身の私が、努力した結果、国連会議に招待されて講演する機会を得ることになったので、これも奇跡のような経験だった。